02

Nov

良寛さん生誕の地

◆久々の新潟帰省



 新型コロナウイルス感染症の心配で、お正月から帰省できなかった妻の実家「良寛さんのまち」に帰省しました。


 出雲崎町は、良寛さんの生誕の地でもあり、日本海には佐渡を望むことができる風光明媚な町です。


 また、この町は松尾芭蕉が越後旅で宿泊し『荒海や佐渡によこたふ天河』という有名な句を読んだことでも知られています。


 一人暮らしをしている義母は両親を亡くしている私にとっては、本当に母のような存在で、健康に長生きしてもらいたいと思っています。


 帰省して出来たことは、義母と談笑したり冬支度をしたり、傷んだ家のDIY(少しだけ)ですが、コロナウイルスの状況を見ながら、これからも帰省します。

 

<良寛(1758~1831)のプロフィール(出雲崎町ホームページより)> 

越後出雲崎に生まれ、詩人・歌人・書家としても知られる江戸時代後期の禅僧。良寛は俗名、号は大愚。幼名は山本栄蔵、15歳で元服し文孝と名乗りました。 生涯無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めました。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説きました。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになりました。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達を愛し積極的に遊んだと云われ、高名な人物からの書の依頼は断る傾向がありましたが、子供達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで書いたと云われています。 また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたそうです。これも形に捉われない良寛の魅力ではないかと思われます。 すべての生きものに愛をそそぎ、老若男女、富者貧者を問わず等しく交流し、人としてどうあるべきかを常に問いかけた良寛の心は、現代にも共通する心として多くの人に共感をあたえています。


 <良寛さまの略歴(出雲崎町ホームページより)>

宝暦8年(1歳)出雲崎の名主橘屋山本家に生まれる。幼名栄蔵。父は以南、母は秀子(或いはおのぶ)。

安永元年(15歳)元服し文孝と名乗る。

安永4年(18歳)名主見習役となる。尼瀬光照寺にて剃髪。

安永8年(22歳)国仙和尚に従い得度。良寛と名のり、大愚と号す。備中玉島円通寺に赴き修行す。

寛政7年(38歳)父以南京都桂川に入水。

寛政8年(39歳)越後に帰り、国上の五合庵を中心に出雲崎中山の西照坊、寺泊の密蔵院、野積の西生寺、国上の本覚院等に転々とし一所不定の生活をする。

文化2年(48歳)五合庵に定住す。

文化13年(59歳)五合庵を出て乙子神社草庵に移る。

文政9年(69歳)島崎の木村もと右衛門邸内庵室に移る。

文政10年(70歳)貞心尼良寛を訪う、時に30歳。

天保元年(73歳)7月、病にかかる。

天保2年(74歳)正月6日寂す。8日葬儀、導師は与板徳昌寺住職大機和尚。隆泉寺木村家墓地に葬る。

 

 ■出雲崎町紹介ビデオ


 https://youtu.be/mbbM0Ah2gx8